コメント
ぶるぢっちゃんのウワサの町中華さん、こんにちは。
>随分と獣臭く、脂っこいという記録が幾つもある。
受け手(食べる側)をとりまく食文化の変化と慣れというのは考えておいたほうがいいのかもしれませんね。
大正期だと、まだ中華料理が家庭に普及する過渡期なので、まだ豚を使ったスープには
慣れていない層が多かったのかもしれません。
また、脂っこいものに慣れている現代では脂っこくないと感じるものも、
当時だと脂っこく感じたという可能性もあるかもしれません。
近代の食文化の変遷は食べる側の感性の変化も含めて、やはり面白いテーマです。
ぬこ@横浜 | 2021年7月11日 09:04おはようございます^^
祐天寺の来々軒は好きなお店ですが、東京會舘の味なんですよね。
次が浅草大勝軒ですか。日本橋大勝軒じゃなくて浅草大勝軒というのが
ドキドキワクワクですね。(*^-^*)
リンク先も目を通しましたが、面白いですね。
mocopapa | 2021年7月11日 09:25蕎麦つゆに慣れた当時の日本人には、
ラーメンは相当に豚くさく感じたのでしょうね。
自分も子供の頃に食べたラーメンは、
豚くさく脂っこい印象しかありませんでした。
今のラーメンの進化を考えれば、浅草来来軒で修行した人たちが改良を加えたことは容易に想像出来ます。
NORTH | 2021年7月11日 10:33こんにちは😃
ルーツとか受け継いだとか、来来軒だからこそ
近づきたい、あやかりたいという気持ちの表れでしょうか。
獣臭く、脂っこいとの証言がどう帰結するのか、
楽しみにしてます。
因みに、昭和初期の方が今のラードや鶏油の
ラーメンスープを飲んだら何と言うのか??
としくん | 2021年7月11日 17:21こんばんは。
よいよ謎解きスタートですね。
ブルさんがどう推理していくのか、楽しみです。
kamepi- | 2021年7月11日 18:56こんばんは
真実は分かりませんが、来々軒出身とか言ったもん勝ちみたいな雰囲気あったんですかね。
正統に味を継いでる所は無さそう。
最初はあったとしても、味を変えないと生き残れ無さそうですし。
次はどうなりますか^ ^
あらチャン(おにぎり兄) | 2021年7月11日 19:11あらら!実は、上京仕立てのころ、祐天寺に住んでまして、この商店街は週末の衣食住でしたー。
その頃はラヲタじゃなかったもので、意識してなかったんですが、ここでも絶対食ってたはず。
後年になって改めて訪問しました。そんなに重要なスポットだったんですね。
確か町中華って気楽さはなかったので、貧乏な私は足が遠のきました。今ではフツーにいい中華料理店なイメージ。ルーツは何処・・・
とまそん@ラーメン食べて詠います | 2021年7月11日 21:43どもです。
そばの鰹出汁がメインだったあろう当時の
客に豚のすーぷが豚臭く感じたのかも知れませんが
嵌った人たちもいたのでしょうね👍
近代日本の味の進歩に現れてると思いますが、
それが來々軒なのが素晴らしいです💓
ラーするガッチャマン(通院中) | 2021年7月11日 23:19こんばんは。
読み応えある本文を先ずは楽しく♪
リンク先は時間がある時の楽しみにします。
洗練された今時の一杯から鑑みると、
当初の獣臭い・脂こいは、正に今昔の感です。
おゆ | 2021年7月12日 21:34よいですねぇ~
歴史と趣を感じさせる一杯。
チャーシュー吊るしの食紅仕様なんて
そそられますね。
ビールで喉を潤しながら、啜りたいです
YMK | 2021年7月13日 07:58
ぶるぢっちゃんのウワサの町中華
たか
レインマン
vye04005
つちのこ






明治の味を紡ぐ店 第三回 祐天寺篇
物語は、いよいよ、謎解きに・・・?
ボクはこの店、都合三度めである。2回目までは調理麺(最初が蝦仁湯麺=塩味の海老そば、二度目が什景湯麺=餡かけ五目そば。未レヴュー)だった。今は淺草來々軒の最終物語を書いているから、やっぱり、元祖東京ラーメンを食べなくてはイケマセン。お味の方は、そう、やっぱり町中華よりは上品なのである。とりわけチャーシューは、煮豚ではなく、吊るしで食紅使用の本格的なモノ。ボクが昭和30年代終わりに食べたラーメンを、正常進化させるとこんな味、という感覚であった。ただ、今シリーズのテーマからすれば、進化も深化もして欲しくはないのであるが。
スープ。此処のスープは上品だ。しかし、高級中華料理店のように、オジョウヒン過ぎてモノタリン訳でもなく、適度にオゲヒンさも感じるのだ。それでも獣臭いとか脂っこいとほとんど感じないのだが。
今まで何度か書いているが、淺草來々軒の大正半ば以降にスープは獣臭く、脂っこいと幾つも記録されている。ボクは前回のブログをまとめたときにそれに気が付いた。
一例だけ紹介しよう。映画プロデューサーの森岩雄が書いた本(注1)の中にこんな表現がある。「有名なシナそば屋に『来々軒』があった。ここで生まれて初めて「シナそば」を喰べたが、物凄いあぶら臭いのに驚いたことがある。” 。
なお、後日ボクのブログでキチンと紹介させていただくが、この本のことは『近代食文化研究会』さんから教えて頂いた。ご記憶の方はおいでだろうか。ボクより先に、淺草來々軒は日本最初のラーメン専門店ではない、と明確に主張された方である(注2)。淺草來々軒のスープに関しては、同会がネット上で公開しておいでの “note” をぜひお読みいただきたい。
https://note.com/ksk18681912/n/na8a2ad9f0226
しかし・・・千葉穴川の進来軒も、此処も、さして獣臭くもないし、脂もそれほど感じない。淺草來々軒の直系、進来軒と祐天寺来々軒の二店こそ、記録がはっきりしているという点では、この二つの店が間違いなく直系の店であるのに、だ。ただし、直系には違いないが、こういう事情があるということを書いておく。
・祐天寺来々軒 創業、昭和八年。淺草來々軒店長歴あるも、独立したのは二代目・尾崎新一の妻・尾崎あさ が経営者の時代。新一氏は1927(昭和2)年、36歳という若さで亡くなっているし、三代目となる一郎氏は1935(昭和10)年、一郎20歳のときに店主となっている。
・穴川の進来軒 創業、昭和四十四年。昭和三十三年から「八重洲」來々軒にて勤務。経営者は三代目・尾崎一郎。
つまりは、初代あるいは二代目の尾崎店主時代の話ではない、ということである。
そして思うのだ。進来軒は“町中華”的ではあるが、やっぱり此処は“町中華”とは一線を画す。確かに代を遡って行けば、この店は淺草新畑町にあった來々軒に辿り着く。しかし、現在の三代目の主人は、系列に上海料理店を持つも基本はフレンチの東京會舘の出身だ。店の味も先代までとはガラリと変えてしまったとか。まあ、旨けりゃいいのである。
昭和八年創業
元祖 東京ラーメン
祐天寺 来々軒
全国来々軒のルーツ
店のあちこちに掲示されているポスターに書かれる文字である。淺草來々軒を巡っては、ネット上の情報はあやふやだったり、明らかに誤りだったりするものも多い。この祐天寺来々軒についてもおかしな記述が見受けられる。
この店の創業は1933(昭和8)年であることは、店内掲示物などを見ても明らかだ。おかしな記述は此処の創業者の経歴と、店の創業時期にある。
いくつかのサイトでは此処の創業者である傅興雷(フ・コウライ)について、「淺草來々軒とその支店・上野來々軒の料理長を務めたのち、昭和8年に大森で創業、翌年に現在地に移転した」とある。
そして上野來々軒の創業は、先ほど触れた二代目・尾崎新一氏の妻・あさ が店を継いだ際、その補佐をしていた堀田久助氏が「昭和10年に独立して創業した」と記されているサイトがいくつもあるのだ。まあ、おそらく誰もそれが真実であることを疑わず、ネタ元がひとつで、それをコピーするから複数出てくるわけだ。
こういうことである。
・祐天寺来々軒の創業 昭和8年(大森で創業、翌年祐天寺に移転)。
・上野來々軒の創業 昭和10年。
・祐天寺来々軒の初代店主は、上野來々軒の料理長をしていた???
上野來々軒で料理長を務める人が、その2年も前から大森で自分の店の厨房に立つ、というのは・・・、まったく可能性のない話ではないが、数年後には日中戦争が始まる不安定な世情のなか、まして現在と交通や通信事情が全く異なる昭和の初期に、別の店の料理長の業務をこなしながら自らの店の厨房に立ち、経営状況も見ないとならない・・・・、そんなことは不可能ではなかろうか。上野來々軒の創業時期が間違っているか、あるいは傅興雷氏が上野來々軒の料理長をしていた事実はない、ということだ。どちらが誤りなのかは、今のところ不明である。
90年の時を超え、この店は淺草來々軒にはなかった歴史という名の風格を備えた店に成長した。もちろん、それは尾崎貫一が明治の末期に創業した店があってこその話。では、この店が淺草來々軒の支那そばの味を継承しているのだろうか?
傅興雷氏の生まれた年も、淺草來々軒に勤めだした時期も分からない。はっきりしているのは祐天寺来々軒の創業が、淺草來々軒のそれより20年以上も後のことだ、ということ。そして、明確に淺草來々軒直系と呼べる店は此処と、千葉・穴川の進来軒の二軒だけであるものの、この店の創業時期よりかなり前に、淺草來々軒と関わっていた店が複数現存するという事実があるということである。それは、近日レヴューにて。
先ほども書いたが淺草來々軒のスープは、大正半ばから昭和の初めにかけて、随分と獣臭く、脂っこいという記録が幾つもある。此処も進来軒も、そしてこれらの店より古い複数の現存店も、それほど獣臭くも、脂っこくもない。さて、この謎をどう解くか? そして、淺草新畑町にあった店の跡地はさて一体、どうなったというのか?
謎めいた淺草來々軒の物語も、終盤へと差し掛かっていく。次回は驚くべき、淺草大勝軒!
(注1 森岩雄が書いた本 森岩雄は明治32年、横浜市生まれ。本は「大正・雑司ヶ谷」。青蛙房。1978年4月刊)
(注2 近代食文化研究会は、著書「お好み焼きの物語」【新紀元社、2019年1月刊】で、淺草來々軒が日本初のラーメン専門店ではないことを証明した。なお、改版「お好み焼きの戦前史Ver.2.01」が電子書籍で読むことができる。)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
追記・・・ネット上に誤った記載がある、というのはままある話ではあります。理由はさまざまでしょうが、年数の経った古い話で、事実関係がもう確認できないということもあるでしょう。淺草來々軒もこの理由によるところが大きいと思います。
ところがつい最近、創業から10年ちょっとしか経っていないのに、こんな情報を見かけました。
・昭和34年創業、木場のタンギョーの名店『来々軒』
・この地で行列が絶えない名店が昭和34年創業の「来々軒」
(https://www.umai-mon.com/user/product/29356)
これは木場にある 來々軒 についての記載です。淺草來々軒のことを調べていて偶然みつけたました。ただしこの記載は、掲載されたリンク先を見れば、あるいはサイトに書かれたことをよく読めば「そうでない」ことが書かれています。しかし、このサイトだけをサッとみると「誤った情報」を「真実の情報」として受け取ってしまいかねません。
そして、つい最近発売されたあるMOOK本にも同様のことが掲載されています。
來々軒 、最寄り駅は木場ですが、所在地は“江東区東陽3丁目”です。RDBでの初レヴュワーはボクですから、この店が開業した経緯はよく存じています。元々の店・来々軒は1959(昭和34)年の創業で、東陽町1丁目にありました。その店は2008年に閉店しましたが、この店の常連だった現在の店主が東陽町3丁目に“來々軒”として復活させたのです。当時、ボクは今の店主に聞いたのですが、確かに「味は引き継いだ」と仰せでした。しかし、場所も経営者も違う訳で、ついでに言えばブランクの期間もあって、この店(東陽町3丁目の店)を“昭和34年創業”というのは明らかに誤りでしょう。『閉店した来々軒を、その店の常連が“來々軒”として復活させた』と記載すべきです。
同じことが“ぴあMOOK 東京の町中華”(2021年7月10日付の発行)に記載があります。厄介なことに、この本ではサイトにあるような“復活”などという言葉を一切使用しておらず、この本だけ読めば「木場にある、タンギョウの店・來々軒の創業は昭和34年」と素直に受け取ってしまいます。なお、WEBサイトにある「タンギョウ(タンメンと餃子)発祥の店」というのも、さて、真偽のほどはまず分かりません。タンメンと餃子をメニューに置いてある店なぞ、1959年以前にも全国には相当数あったでしょうから、だれが最初に「タンギョウ」と言ったかなんて、検証のしようもありません。
こういうことをネタ元にして広がると、あたかもそれが真実であるということのように語られるということでしょうか。淺草來々軒に関わる話も、こんなふうなことが多かったのでしょうね。