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「ワンタンメン(600円)」@中華料理 五十番の写真淺草來々軒にまつわる八つの物語 其ノ四 「ライバル」
 創業五十年超、歌舞伎町のど真ん中。
 しかし。
 登録すらなかったなんて・・・・こういう中華店、多すぎる・・・

 
 1962(昭和37)年から、歌舞伎町を見つめている五十番。店先に、白と黒のブチ猫がいた。こいつはいつから歌舞伎町を見つめているのだろうか。

 店に入ると、なんか、こう、きちゃうね。洒落っ気なんぞは全くなし。壁に貼りだした品書きは茶色く変色。テーブルも年代物、椅子は不揃いで丸椅子なんてのもある。テレビは、なんとブラウン管。地デジチューナーを付ければそりゃ映るだろうが、縦横比が違うから、画面が欠けてるって。

 そのテレビ、相も変わらず新型コロナ。先客二人のオヤジたちがビール片手に「ヨーロッパが大変だな」と他人事のように呟いている。「餃子、旨いな」なんて言ってら。

 客はボクを入れて三人だけ。後から誰も来ない。七十代か八十代なのか、バアチャンと言っていいだろう方、奥方だろうな、が、ぼんやりと厨房を見つめている。不夜城・歌舞伎町も日曜の正午なんてこんなもんだろう。まして新型コロナ、である。新宿駅界隈もかなり人通りが少ないのは気のせいだけではあるまい。

 だけど、この店にいると、此処が歌舞伎町ど真ん中だということは忘れてしまう。いただいた一杯もまた、ボクが下町で子供の頃喰ったような「中華そばワンタン入り」のようだ。

 平板なスープ。鶏ガラ、少しの豚骨、香味野菜。出汁はそんなところか。それでも醤油が立っているので薄いとか物足りないということもない。こういうスープには胡椒が似合うんだな。ただし、瓶の口が詰まっていてあんまり出ないのはご愛敬・・・

 麺は意外に硬め。ユルユルのふにゃ麺を想像していたから、これは嬉しい。ワンタンは・・・餡にちょっとだけ肉が入っていた。まあ、値段からしてこんなもんだろう。

 可笑しいのはナルトのほかに、赤い縁取りの蒲鉾が。なんでこんなんあるのかな? 摩訶不思議である。

 歌舞伎町でワンタンメンで600円。麺類最高価格は広東麺・天津麺の650円である。まったく以て、昭和の価格である。歌舞伎町の奇跡のような店、次の10年も、とただ願う。ご馳走様。



 さて、ここから【淺草來々軒にまつわる八つの物語 其ノ四】である。今シリーズでは屋号や土地など、淺草來々軒にまつわる店を回って書いているのだが、四回目は、「ライバル」、である。
もちろん、この話は、歌舞伎町五十番とは関係がない。
 
 五十番、というラーメン屋・中華料理店の屋号はお聞きになったことがあろう。大抵は、東京読売巨人軍の王選手、今の福岡ソフトバンク・ホークスの取締役会長の王 貞治氏の実家を思い浮かべるだろう。
 1928(昭和3)年、現在の墨田区八広四丁目にあった中華料理店「五十番」を、王氏の親御さんが居抜きで買ったのが始まりで、以来、東京大空襲で一度は焼け、1945(昭和20)年11月に再開、翌年の12月に現在の業平二丁目へ移転、さらに新宿に移ったのち、1965(昭和40)年にその店も閉じた、というのが大雑把な歴史である。

 しかし、中華料理店としての「五十番」の屋号の歴史は相当に古く、創業は明治時代のことで、横浜・山手の居留地、五十番館に住んでいた中国人が開いたのが始まりという。そこで働いていた人が浅草のレストランの中華部門に移り、やがて独立。神田の五十番(1987年に屋号改称)がそれで、創業は1912(大正)元年のことである。また浅草は新仲見世通りに中華料理店・五十番(こちらは閉店)が開いたのは、1923(大正12)年のことであった。
神田五十番は北海道にも進出、今も残る札幌の「東京五十番」の創業は1961(昭和36)年である。

 さて、淺草・新仲見世通りの五十番、昭和の初めごろには、これは大変な人気店であった。目と鼻の先にあった淺草來々軒も大正時代には大繁盛しており、一階も二階も満員で、なかなか店に寄り付けない有様であった。『淺草に行くとなればそりゃ來々軒だろう』と朝から心の準備をして出かけた客は数多かったのだ。しかし、昭和に入ってからその人気に翳りが生じ始めた。

 その理由は複数あるのだが、一言で言えば時代の流れに乗れなかったためだ。当時の人々はやたら忙しなく、とにかく早く喰って次の仕事に向かうという人ばかりだった。何しろ、店に上がるため『一寸下駄を脱ぐのも億劫である。靴の紐を解くのは尚更のこと』(「浅草底流記」、添田唖蟬坊・著、近代生活社。1930年10月刊。以下、同じ)なのである。『民衆は唯うまいといふ事の外に手輕と安價と迅速とを要求して止まない。そして味覺堕地獄。機械的に貪り食ふ、投り込む、詰め込むので』あった。

 淺草五十番は当時の人の動きを的確に捉えていた。だから『來々軒より五十番へ』と人の流れが変わり、結果、淺草五十番は、『猛烈な繁盛振りはどうだ。安くてうまい・こゝは何でも分量が多い』と評判を取る。一方、淺草來々軒は『昔の繁盛をしのぶよすがもない。流行の犠牲、氣の毒である』などと言われる始末。

 淺草來々軒の尾崎店主の悔しさはいかばかりだったであろうか。きっと「見返してやる」と思ったのではないか。そして昭和7,8年ごろには、また來々軒へと客は戻ってきたのである。偶然か必然か、やがて、淺草五十番、淺草來々軒とも上野に進出、そこでもまた競うことになるのである。

 淺草にあった來々軒と五十番は、切磋琢磨しあうライバルと言える存在だったのだ。
(続く)

投稿 | コメント (12) | このお店へのレビュー: 1件

コメント

ここ知りませんでした。
同じメニューで追随したいですね。

YMK | 2020年4月1日 07:50

どもです。
自分の生まれた年が創業とは
何だか縁を感じてしまいました😄
この辺り何度も歩いているのに
覚えていません(笑)

ホワイトペッパーだなぁ~。

ワンタンは皮だけでも良いくらい(笑)

junjun | 2020年4月1日 09:59

おはようございます🌞
登録&初レポお疲れ様です☺️
この辺りは頻繁に行きますが視界に入ってきませんでした😅
ブックしたので、早めに伺ってみます👌✋

銀あんどプー | 2020年4月1日 10:26

またまた発掘お疲れ様です😊
そういえば、何か見覚えのある店構え🤔
淺草來來軒には、五十番という良きライバルがいたんですねー

NORTH | 2020年4月1日 10:52

こんいちは^^
ここは昔食べた記憶があります。
多分30年くらい前かな。
来々軒と五十番の歴史、勉強させてもらいましたm(__)m

mocopapa(S852) | 2020年4月1日 12:51

こんにちは!

自分の幼い頃に食べた記憶を辿りますと、昭和40年代に浅草・入谷・根岸
辺りで流行っていた町中華は『五十番』の他に『一番』『長城』等が有りました!
その頃の後半に今浅草に在る『十八番』の存在も知りました。。。
当時はこの番号中華の屋号は中国等でも縁起の良い数字だと親から聞いた記憶が
有りますね。子供心に何故中華店の屋号が番号ばっかりなのかと思ってましたよ。w

4門 | 2020年4月1日 15:20

掘り起こしの初レポ、お疲れ様です。
今や歌舞伎町のガラパゴスかもしれせんね。

後半の下り。興味深く読みました。
その当時の浅草は不忍池な様な池もあったとか。

おゆ | 2020年4月1日 19:21

こんばんは。
都内で未登録の店がまだまだあるんですね~
驚きました。

kamepi- | 2020年4月1日 22:16

歌舞伎町にもこんな店があって、しかも初レポなんですね。
胡椒の口がアジがあって良いですね。(笑)

まなけん | 2020年4月1日 23:51

おはようございます😃

歌舞伎町の老舗をrdbの世に出していただき
有り難うございました。
浅草の五十番とは無縁なんですか。
來々軒と五十番のライバル関係は、暫く続くのでしょうか。

としくん | 2020年4月2日 08:45

こんばんは
歌舞伎町のど真ん中にいることを忘れる感覚を味わってみたいです。
でも、二郎シリーズで歌舞伎町の2軒が残ってるのでそこを攻めないと^ ^
良いライバル関係も戦争が変えましたかね。

あらチャン(おにぎり兄) | 2022年8月26日 02:22