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「ワンタンメン(870円)」@中華そば 萬福の写真謎めく淺草來々軒の物語 最終章 
明治の味を紡ぐ店 長い序章の、其の壱 木挽町篇(注1)
(ブログ連動企画 注2)

 相変わらずの「おそば」の味だ。きっと30年超、おなじ、味。もっともこれは「雲呑おそば」。
この店に初めて来たとき、常連客であろう何人かがこう注文したのを聞いた。「おそば一つ、ください」。おそばとは無論、中華そば、ラーメンのことである。そして、初めて食べたとき、「ああ、こういうラーメンが食べたかった」と素直に思った。一緒に店に来た同僚も一口、二口食べて同じことを口にした。「なんか、すっごく懐かしいですね」と言葉を添えた。そうだね、これってボクが子どもの頃食べたラーメンだよ、昭和30年代の終わりかなあ、とボクが言うと、同僚は「私は昭和40年代半ばのイメージですかねえ」。

 同僚であるから都内にある職場は同じ。四歳ほど歳下であるその同僚は、東京都内出身であるが、ボクとは育った町が全然違う。だから此処の中華そばは、複数の都内の地域の、昭和30年代終わりから40年代半ばの“東京ラーメン”のイメージで、それは今から思えば、かつて淺草は新畑町にあった「淺草來々軒」と同じような味だったのかも知れない。

 戦争の愚かさと虚しさを、平和の尊さと貴重さを、日本に暮らす人々に嫌というほど教えた、昭和という長い長い時代が終わり、平成という新しい年号にまだ耳が慣れていないという頃のことだった。まだウインドウズ95は世に出ておらず、ましてインターネットなる言葉を殆どの人が聞いたことのない頃のことだ。情報取得ツールはあくまでテレビか本、雑誌に限られていた。ボクと同僚は何気なく、たった一つの予備知識もなく、その店に吸い込まれていった。ただ腹が減った、ほかに店を探すのが面倒だというそんな理由だけだった、と思う。記憶では2階建ての木造・・・いや、3階建てだったのだが、とにかく50年は歴史を刻んできたという木造の店の中で、親爺らしき人が一人で、いや二人いたかな・・・厨房に立っていた。ともかくボクらは席に着き、中華そばを頼んだのだ。

 やがて出てきたその一杯は、取り立てて特徴がない、いやいや、三角の玉子焼きが強烈な印象を伴っていた。そして一口、二口啜って、冒頭の会話を交わして、あとはひたすら麺を啜ってスープを飲んだ。

 そう、この店こそ、銀座最古参の町中華であり(注3)ノスタルジックラーメン提供の店・・・。創業は大正年間の屋台で、昭和四年に現在の場所に店を構えた。その当時、浅草では來々軒の人気に陰りが見え始めていた。代わって五十番なる店が一番の人気となっていたし、大正の初めに創業した日本橋人形町の大勝軒が立派な支店を構えたばかりだった。また、芝浦にあった超高級割烹かつ北京料理の雅叙園が、大衆化を図ろうと目黒に店を移したころでもある。その当時の雅叙園では、のち飛騨の「高山ラーメン」発祥の店となる「まさごそば」を創業した坂口時宗氏が懸命に修行に励んでいた。さらに言えば傅興雷(フ・コウライ)が淺草來々軒から独立し、大森に店を構えたのはその数年後のことであった。

 これらの店は「謎めいた淺草來々軒の物語」を語るうえで、一定の役割を果たすことになるのだが、そんなことはこの時代の店の人々に分かるはずもない。

 淺草來々軒があった東京淺草区・下谷区は、昭和二十年三月十日の東京大空襲で、区域の約9割が消失した。またそれに先立つ同年一月二十七日にはいわゆる銀座大空襲も起きている。よくぞ萬福の木造店舗は生き残ったものだ。しかし耐震化に問題があったその建物は取り壊され、平成十五年に今の建物へと変わった。初代の店主も八十歳を超えてなお現役であったが、今はとうに鬼籍の人である。

 この店はだから百年近くの歴史を刻んだ。創業当時と今の中華そばの味は変わったのか。現在の店主によれば、基本的な材料などは変えず、具の配置もそのままだという。店に残る許可証「軽飲食 西洋」と書かれた小さな看板は、創業当時の名残。明治末期から昭和初期に「西洋・支那料理(西支)」もしくは「西洋・中華料理(西華)」が流行ったのである。だから店の品書きにはまだ「ポークライス」があるのだ。

 ・・・初めて此処で食べてからもう三十年余り。齢のせいか、最近この店にまた通うようになった。意識してスープを味わうと、案外、脂っこい。動物系の出汁も強い。ただそれは「そういうスープ」ということを意識して初めて感じ取ることができるんだろう。そしてそれは、初めて食べたときの、あの懐かしい、銭湯の帰りに母親と食べた一杯五十円か六十円のラーメンの味とはちょっと違うように思う。三十数年前の感覚とは異なるのだが、それはボクの記憶が美化されただけに過ぎないかも知れぬのだ。

 店内には中国語が時折飛び交う。またこれも時代の表れで、スタッフに大陸系の方がおいでだから。その人たちにすれば日本語は難しいのだろう、時折ぶっきら棒に聞こえる。それはネット上で「接客が悪い」と言った評判につながっているようだが、なに、のんびりと昔懐かしい昭和の中華そばを味わえると思えば気にもならない。今日もまた、美味しゅういただきました。ご馳走様。



 ・・・さあ、此処から始めよう。淺草來々軒の謎めいた物語、最終章を。



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『淺草來々軒は戦後、誕生の地・淺草ではなく、なぜ東京駅八重洲口で店を再開させたのか?』
『淺草來々軒の大正七、八年ごろの支那蕎麦のスープは脂っこく豚臭かったというのは本当か?』
『淺草來々軒の正当な後継店は果たして存在するのか、存在するとしたら、どこのどんな店なのか?』

 “・・・明治末期に淺草新畑町に創業した町中華・淺草來々軒の謎を、徹底した調査と圧倒的な行動力で解き明かす、淺草來々軒の物語の最終章! ラーメンファン必読のブログ、いよいよ公開!”

 まあ、下手なコピーを打てばこんなところでしょうか。調査はしたけれど徹底的にしたかどうかは自信がありませんし、圧倒的な行動力を示したというのは甚だ疑問ではありますよ。ともあれ、3年以上にわたり調べてきた淺草來々軒の謎めいた物語を始めましょう。

 次回はなお序章を続けます。それは岐阜県内の、あるお店から。


※注1 木挽町は、戦後間もないころまで存在した、今の歌舞伎座辺りの地名です。
※注2 ブログはこのレヴューシリーズが終了したら公開します。
※注3 銀座では、1899(明治32)年に「維新號」が(当時は神保町)開業していますが、町中華的な店としては萬福が最古参と思います。ちなみに、しばらくぶりに食べたら永福系みたいな味になっていてびっくりした「共楽」は1956(昭和31)年、ニンニクがゴロゴロ入っていたベトナム麺で知られた「八眞茂登」(2008年閉店し、現在は八丁堀で営業。ただし麺類はなし)1948(昭和23)年の創業です。

投稿(更新) | コメント (10) | このお店へのレビュー: 3件

コメント

こんばんは〜
僕にとっての小さい頃のラーメン屋のイメージは半チャンラーメンです😉
古いタイプのもので今でも好きなのは、クラシカルな南京そばでしょうか✋

新レビューシリーズ、超楽しみにしてます👍👍👍

銀あんどプー | 2021年6月30日 18:28

お久しぶりでございます。
このお店、風情がありますよね。
続き楽しみにしております。

NORTH | 2021年6月30日 18:29

どもです。
私が端から端まできっちり読むのは
ぢっちゃんさんのレポだけですから(笑)
來々軒楽しみにしてます💓

こんばんはぁ~♪
お久し振りです。来々軒の謎。
読むのにワクワクしちゃいますね。
そう言えばこちら伺っていないので、早めに行きますね(*^-^*)
木挽町にいい飲み屋あったんですよ。

mocopapa | 2021年6月30日 19:44

お久しぶりです!
ううう・・・誰か雇ってYouTubeにしましょう
ツーか、ブログがそのまま出版できそうかと!

老舗名店ですねぇ~

コロナ明けたらビールと共に
しみじみ啜りたい内容です。
丼の柄も魅力的です。

YMK | 2021年7月1日 08:05

こんにちは。
よいよ始まりましたね。
大正七、八年ごろの支那蕎麦のスープは脂っこく豚臭かった、が一番気になります。
次は私も最近行ったあそこですね。

kamepi- | 2021年7月1日 08:24

おはようございます^^

昨晩、家飲みしながら読もうとしましたが、
じっくり噛み締めて読もうと、朝一に回しました^^
楽しみにしてますが、無理しないでねー
此方は出来れば冷やしがある内に、今年こそ。

としくん | 2021年7月1日 10:04

おはようございます。

ぶるさん節をまた楽しめて嬉しい限りです。
此方にも何れ初訪問してみます。

無理しないでねー②

おゆ | 2021年7月2日 08:00

こんばんは
逆さから読み直していますから、答えから問題を探す感じです。
でもそれもまた楽しいですけど^ ^
この間銀座のラーメン屋さんにも行きましたが、ここにも行っておけばよかった。
勉強は唯一歴史が好きで、ラーメン史もまた興味深く感じています。

あらチャン(おにぎり兄) | 2022年7月14日 19:31