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「酸辣麺(750円)」@神田 天府の写真淺草來々軒にまつわる八つの物語 其ノ八 「終焉の地

※ここで食べたのは、都内ではそれほどコロナウイルス蔓延はしていない時期でした。


 『明治時代、横浜の山手にあった外国人居留地に移り住んだ中国人が中華料理店を始めたのが「五十番」の創業と云われております。当時の外国人居留地には一番館~百番舘ほどの建物があり、「五十番館」に住んでいた中国人が、店名に自分の住所を名付けたことが由縁になったと聞き及んでおります。明治末期、「五十番館」で働いていた日本人が、東京の浅草にある食堂の中華部門に転職。そこから大正に入ると独立し、「中華料理 神田五十番」の屋号で東京都の神田に出店しました。浅草の食堂からは他にも数人が独立し、「五十番」の店名で各地に出店・・・』(札幌 中華料理・東京五十番公式サイトより)

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 ビルの地下に向かう階段を降りると、まあ賑やかなこと。今日は土曜日だから付近のリーマンはいないだろう、それならもしかすると話が聴けるかも知れないと思って来たのだが、どうやら難しいようだ。

 頂いた一杯は、流石ネットで「本格的な四川料理を喰わせる」と評判通りだ。某サイトでの平均スコアは、全体のTOP3%以内とされる「3.5」に迫る3.46である。

 見た目はまさに本格派酸辣湯麺。とにかく辛い。酸辣湯麺(此処は酸辣麵)だからそれでいいのだが、チト辛すぎる。それに酸味も少し足らない。だから酢を入れたのだが。結果は目に見えている。

 汗、である。もう一口啜る度、汗が垂れてくる。ボクにとっては、ボクだけではないだろうが、強い辛味と酸味は汗を噴き出させる黄金の組み合わせなのだ。

 麺もいい。ヤワ麺ではない。丸いしっかりしたもので、このスッパカライスープに十分対抗しているじゃあないか。

 酸辣湯麺だから具はもう決まっているのだ。鶏ひき肉に椎茸、長葱、細切り筍、豆腐などでソレらを餡でまとめて溶き卵、ってなもんである。

 いやあ、確かに旨いと思うよ。それに此処、メチャクチャコストパフォーマンスが良いのである。
だからだろうか、ネットでは「大陸系中華店」などと書く者もいる。違うって。町中華でもないし高級中華でもない。その中間「中級中華」でもない。まさに此処は四川料理店。

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 淺草・來々軒を調べていく中で出会った本。しかも、随分と最初のうちに出会った本。

 この本とは、【淺草來々軒にまつわる八つの物語】で、何度か「1980年代に書かれたある本」と書いて来た、その本のことである。

 小菅桂子・著『にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか』※1 (以下、「ラーメン物語」)。この本、何せアメリカの歴史学者であるジョージ・ソルト氏が自らの著書 ※2 の中で「ラーメン史の先駆的研究」と賛辞を贈った書籍である。その書籍にこの店が紹介されているのだ。いや、多分、この店のことだろうと思う、が確証はない。
 
 本自体を入手したのは去年のことだが、紹介されているのを知ったのはずっと後になってのこと。だって本文ではなく「あとがき(正確には「あとがきにかえて」)」に載っていたのだがら見逃していた。

 そこに書いてあるのを要約すると、冒頭の「五十番」誕生の経緯に触れた後、「その五十番の古顔の一つ、大正元年からの暖簾を守る神田の五十番」が、1987(昭和62)年6月に店名を変えたというのだ。小菅氏は当時の神田の五十番の社長●●氏(●●は「姓」)の話として「うちの店を接待に使ってくださろうと思っても、会場は五十番で、と言うと『なんだ、ラーメン屋じゃないか』と残念がる」ので、イメージチェンジを図ろうと店名を変えた、というのだ。

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 とにかくすごい汗である。スタッフのチャイナオネエサンが「ダイジョブアルカ?」と聞いて来た。〆た! 今がチャンス! スタッフに聞いても分からんかも知れないが、ダメ元だ。「大丈夫ですよ。ところでこの店のオーナーは中国の方?」「イヤ、ニッポンジンですよ」「そう。以前、この店、屋号は五十番っていったんじゃない?」「ソレ、いつ頃の話アルカ?」「30年以上も前だけど」「私、知らないアルヨ。でも、オーナーさん、ずっとオナジネ」。

 「オーナーさん、●●さん、っていう人?」「そう、アルヨ」。

 そうか・・・その人の姓は小菅氏が書かれていた社長と同じ姓だった。本に記された、変えた後の屋号は「天府」。神田には他にこの屋号の店はない。此処が大正元年から100年近く続く店なのか。ネット上にも一切そのことに触れる文はない。第一、開店は2011年9月とあるし、ネット上では「四川出身のオーナーシェフの店」という記述もある。しかし、オーナーは日本人で、屋号が変わる前からずっと同じというスタッフの話は一体・・・

 神田五十番の記録を追うのは大変だった。ようやく分かったのは、神田・須田町交差点付近所在の「万総」というフルーツパーラー店のビルの地下にあったこと、そのビルは2011年の東日本大震災で甚大なダメージを受け、2012年に取り壊されたこと、などである。もし、この店(天府)が神田五十番の後継店なら、この地、神田駅近くに店を構えたのは2011年9月、というのは時期的に符合が合うのだが。同一店名で、かつオーナーが同一姓、という偶然もないわけではないので、この天府が五十番後継という確証は持てない。ボクに出版社なりのスポンサーがついていたら、すぐ取材に行くだが、それは叶わない。

 ・・・30数年前まではよくある中華店だっただろう五十番。浅草の五十番も、そしてかつて浅草にあって、戦後、八重洲、神田と移った來々軒も、今はない。もし、この店が神田五十番後継なら、百年の時を超えて、今なお神田でその歩みを進める。凄いことなのだが。


 この店の所在地は、千代田区内神田二丁目。


 淺草來々軒の終焉の地も、神田駅近くの、この、内神田二丁目であった。


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 さて。淺草來々軒にまつわる八つの物語はこれにて仕舞い。

 これまでの8回の記録をもう少し詳しく、そして、まとめてみます。これが最後なので、今まで伏せていた引用書籍名も明かします。

 ◆來々軒の創業は明治43年?・・・來々軒は明治43年、1910年に開業したというのが通説です。おそらく「ラーメン物語」が、この説を最初に書いた本でしょう。來々軒に関する記録が書かれた百冊近くの本を読みこんだ上の結論です。

 この本には來々軒三代目店主・尾崎一郎氏のインタヴューが掲載されています。本には書かれていませんが、「ラーメン物語」の著者は一郎氏から創業時期を聞き取ったのではないかと推測しています。しかし、それすらも書かれておらず、ほかに根拠も示されていないことから、「銀座秘録」※3 に書かれた『淺草の來々軒の如きは、明治四十四年の開業であるから、極く安直な支那料理屋はないではない』という記述、すなわち明治44年創業説とするのが妥当だと私は考えています。

 ◆來々軒は「ラーメン専門店」だった?・・・もっとも分かりやすいのは、ネット上にも公開されている大正12年頃とされる來々軒の写真※4 です。そこには『支那御料理』『支那蕎麦』『廣東●●理來々軒』『●東御料理』『廣東●●支那蕎麦來々軒』などと描かれ、品書きには『シウマイ』「マンチウ」『支那蕎麦六銭』『ワンタン六銭』とあります(●は判読不能)。また、「ラーメン物語」掲載写真では『廣東御料理來々軒』『滋養的支那料理 そば わんたん 七銭』と判読できます。まさに広東料理店、支那料理店でありました。

 その証ではないですが、「ラーメン物語」の中で三代目店主・尾崎一郎氏は『来々軒は日本人が経営したはじめてのシナの一品料理屋だったと思いますよ』『お客様のニーズにこたえて天津丼と中華丼ができたわけですが(中略)、カニ玉も八宝菜も十二銭の頃です。五十銭あったら遊んでラーメンたべて、割引(注・映画館への割引入場)へ入れた時分の話です。天津丼と中華丼はお客さまのヒントで、來々軒が名付け親です』と話しています。三代目はとはいえ、1939(昭和10)年には家業を継いだ方の言葉です。これ以上の説明は必要ないでしょう。

 それでも、補強しましょう。「ベスト オブ ラーメン※5」 では昭和初期の來々軒の品書きの写真の一部を掲載しています。そこにはこんな品があります(単位は銭)。
・肉もやしそば 三五
・やきそば 三〇

 さらに「古川ロッパ昭和日記 戦中篇」※6 でも、來々軒で“五目そば”を食べた記録が記されています。
 
 このように、來々軒はヤキソバ、五目そばといった麺類の外に中華丼や天津丼といったご飯物も提供していました。これでは「ラーメン専門店」とはとても言えないでしょう。

 また「大東京うまいもの食べある記 昭八年版」※7  では、巻末の『補遺(注・補足、の意)』で、こう書いています。『支那料理一瞥 大衆的な一品支那料理は日本橋八重洲口の珍満、それから浅草、上野の五十番、淺草日本館前の來々軒等はむしろ支那そばが有名ですが(後略)』。  

 この表現では「大衆的な一品料理は八重洲口の珍満が有名だ。上野・浅草の五十番と來々軒などは大衆一品料理もあるけれど、むしろ支那そばが知られている」というように解釈できます。

 來々軒=日本初のラーメン専門店、という話。推測ですが、以前書いたように1990年代半ばに起きたある出来事がきっかけ、というか、その時期に開業したある施設から発信されたと考えています。勘の良い方はピンと来るでしょう。ある出来事、というか場所というか、それは横浜にあります。

 ◆來々軒は「日本最初のラーメン店だった」?・・・明治39年創業の神田・揚子江菜館の前身・支那そば、という店は、神田学会のWEBサイト以外に記録がないので省きます。
 
 昭和8年に書かれた「淺草経済学」※8  にはこんな記述があります。『(明治41年に)千束町の通りに、中華樓と言ふのが出來た。こゝは支那ソバ屋としての組織であったから、つまり此の意味に於ては淺草に於ける元祖である』。さらに続けて『即ちこれまでの支那料理と異なり、支那そば、シューマイ、ワンタンを看板とするそば屋であつたのだ』。『中華樓は現在も、開業當時と同じ営業をやつているので、淺草の支那料理では、こゝが元祖であり、老舗でもある』。

 つまり、來々軒創業の3年ほど前に、來々軒がウリとした『支那そば、シューマイ、ワンタン』と同じ品を看板にする店はあったことになります。眉唾? いやいや、次を見てください。

◆來々軒は「日本人が最初に店を構えて経営したラーメン店」?・・・やはり「淺草経済学」です。前述した中華樓は、『(経営者の)江尻君は氣さ(注・キザ)で、頗(すこぶ)る痛快な男でもあるから、千束町では誰れ一人知らぬ者もない。中華樓は開業當時から千束町二丁目※9  二百五十一番地で、開業當時から、支那人のコックを雇ひ、シューマイ一銭、ワンタン六銭、支那ソバ六銭で賣り始めたのだ』。
 経営者は日本人です。経営者の人柄までも書かれています。眉唾、ではありません。

 ◆今まで塩味だけだった汁そばを改良、來々軒が初めて醤油味の中華そばを作った?・・・これは記録が見当たりません。しかし、明治末期の横浜では既に屋台で支那そばを提供していたとされています。來々軒は開業当初から、横浜・南京町(中華街)から調理人を招いています。そして來々軒は本場・中国の味が楽しめると評判を取ったのです。中国の料理人が作った本場の味が評判だったというなら、支那そば(汁そば)もまたそれに合わせるべきではないでしょうか。なぜゆえ、支那そばだけを日本人向けに、つまり醤油味に改良したのでしょうか。もしかすると、もう横浜では、醤油味の支那そばを提供している店・屋台があったのではないでしょうか。くどいですが、來々軒が初めて醤油味の汁そばを作ったという記録はありません。

 ◆來々軒が提供したラーメンは今でいう東京ラーメンの元祖?・・・「ラーメン物語」の著者は、『日本人向けのラーメンが初めて登場したのは八十四年前の明治四十三年、浅草に開店した「来々軒」と結論づけ』ました ※10 。大正から昭和の初めにかけて書かれた本に、來々軒ほど登場する支那料理店はありません。影響力は他店の比ではなく、そう言っても間違いではないとは考えます。

 さて、來々軒=日本初のラーメン専門店ではない、と言い出すのは私が初めて? いや。それが書かれた本を見つけたのはつい最近。ブログの記事を殆ど書き終えた頃でした。もう少し前にこれを読んでいたら、これほど時間をかけて調べることもなかったでしょう。もしかすると、まったく書く気さえ起らなかったかもしれません。その本の存在を知らなければ、シラッと私が初めて主張した、などと書いていたのですが、知ってしまった(本当にこの表現がドンピシャ)以上、触れない訳にはまいりません。

 その本は、私と同じように「淺草経済学」から中華樓などのことを引用し、いや、もっと多くの本などからも引用して、來々軒=日本初のラーメン専門店ではないことを明確に示しています。先を越された悔しさと、同じように考えられた人がおいでになった嬉しさとが同居する、奇妙な感情です。
その本は。まさか、こういうタイトルの本に? と思われるでしょうが。昨年の1月に発行されました。


      「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」 ※11 。

 
 この本では『来々軒は日本初の支那ソバ屋でもなければ日本初の大衆的中華料理店でもなかった。來々軒は明治30年代に横浜と東京で高まっていた中華料理への関心がいきついた帰結の一つであり、浅草においては中華楼をはじめとする、明治末期の開店した複数の中華料理店の一つに過ぎないのだ』と断じています。しかし、私がもっとも共感したのはこのくだりです。

 『横浜南京町(注・今の横浜中華街)にもおそらくは、中国から多くの麺料理が移入されたことだろう。支那そば=ラーメンは、横浜南京町の多くの麺料理の中から、日本人好み麺料理として次第に生まれていったと考えるのが妥当であろう。』全く以って同意です。

 ただし、この本では明治44年創業説や、揚子江菜館の前身の話などには触れていません。そりゃそうです。この本は、基本的にタイトル通りの「お好み焼きに関する歴史的な考察をした物語」なのですから。

 それでも、淺草來々軒の残した足跡はあまりに偉大です。來々軒の様子を記した、昭和の初めまでに書かれた本の、ほんの一部だけ、紹介します。

 ◆「三府及近郊名所名物案内」 ※12  ・・・『淺草公園での名物は支那料理で名高い來々軒である、電車仲町停留場から公園瓢箪池への近道で新畑町の角店だが、同じ支那料理でもよくあヽ繁昌したものだ、二階でも下でもいつも客が一杯で中々寄り付けない様で、此の繁昌するのを研究して見ると尤(もっと)もと思われる、客が入るとすぐとお茶としうまい、を出す そこで料理が、わんたんでも、そばでも頗(すこぶ)るおいしい その上に値が極めて安い』

 ◆「三都食べある記」※13 ・・・『一五、北京廣東上海の味 支那料理の大衆的普及と云ふことでは、浅草の來々軒が、腰掛式の簡易な構へであり、安價専一であるだけに、それぞれ一般に呼びかける力が大きかつた。「支那料理は安くて美味く、腹一杯になる」と云ふことを、街頭に進出して宣傳したのは、來々軒の大きな業績であると共に、大きな成功であつた。今、東京の各區や、場末や、隣接郊外地の賑やかな町で、狭くて小さい構へながらも、支那料理を看板にして居る店は、多く此の來々軒の系統らしかつた。』

 ◆「東京名物 食べある記」※14  ・・・淺草味覺極樂 中、『來々軒 區割整理を終わつて相不變(あいかわらず)未覺神経と嗅覺神経が交錯して混沌として押すなヽと来る客に混沌たる支那料理を食べさせてゐる』。

 ◆「悲食記」※15 ・・・『十二階があったころの浅草といえば震災前のこと(中略)。中学生だった僕は(中略)はじめて『來來軒』のチャーシュウウワンタンメン(叉焼雲吞麺)というのを喰って、ああ、なんたる美味だ、と驚嘆した』。

  まとめます。

 ◆淺草來々軒の創業は、1911年・明治44年である。明治43年説も有力ではあるが、その根拠が見つからない。

 ◆淺草來々軒は、日本初のラーメン専門店ではない。天津丼などのご飯物も提供していた、今でいう「町中華」であった。また、店を構えた日本初のラーメン専門店でももちろんない。この「淺草來々軒は=日本初のラーメン専門店」説は1990年代半ばに作られたもので、それはおそらく、横浜のある場所から唐突に、発信された。

 ◆日本初のラーメン専門店、とあえて言うなら、それは千束にあった、明治41年創業の「中華樓」であろう。ただし、現存する神田・揚子江菜館の前身「支那そば」なる店の可能性も否定できない。

 なお、脚注=この文末 に「*」印がある書籍はWEB上で全文読むことができます。「国立国会図書館デジタルコレクション」に入って、書名を検索してください。

 淺草來々軒=日本初のラーメン(専門)店説の検証を始めて5か月、百冊に近い本を読んできました。皆さまにも來々軒が日本初のラーメン専門店か否かをお考えいただきく、下記URLの私のブログをUPしました。400字詰め原稿用紙140枚の長文になりますが、お時間があった時にでもお読みいただければ幸い思います。淺草來々軒の本当の姿や足跡が見えてくると思います。本当は、本として出版したいんですけどね。これも叶いません 大笑。これは、私の、RDBへの置き土産です。
   
   
   淺草來々軒 偉大なる『町中華』
   https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/a2cff9cb8dcf5636a5caab3e78a695b3


 置き土産。

 そう、私もこれにて暫くの間、RDBを休止します。

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 最大の理由は、現在、私はラーメンどころか外食ができる環境にない、ということです。
 昨年1月、還暦まで数か月というところで がん が見つかりました。かなり進行していて、発見即入院・オペとなりました。ステージはⅢ-b、もはやこれまでか、と一時は覚悟を決めました。しかし幸い、1年以上たった今、転移・再発は見られません。自宅療養をしていたのですが、体調に問題なしとなれば休んでいた仕事を再開しなければなりません。そして、今就いた仕事は完全内勤です。それに何年も前から、今どきの新店に興味を持てなくなってしまっています。どこで食べても、同じような味にしか感じません。老舗中華店を回るのも、それはそれで飽きが来ます。つまりは、ラーメンを食べ過ぎました。13年弱で2,500回2,141店のレビューは少ないという数字ではありません。冷却期間も必要で、いずれきっとまた新店に飢えた状態になるのではと考えています。ですので、2,500回を機に、一旦休止することにしました。

 完全休止ではありませんが、それなりの期間、UPできません。ひと月か半年か1年か分かりませんが、病状が悪化し重篤な状態になったわけではありません。数百回数千回と続けて来られた方が急に登場しなくなって、心配になったことが多々あります。こうして書いておかないと、なんか亡くなったんじゃないと言われそうです。死んでませんから 笑

 次回お目にかかれる(?)としたら、どこかの地方の店からになるでしょう。沖縄は行くつもりはありませんが、山口県と福岡を除く九州はまだ染めていませんから。

 みなさま、連食などは控えて、塩分、脂肪分、くれぐれも取り過ぎず、お元気でお過ごしください。12年と11か月の間、(とりあえず)ありがとうございました。

 また、いつか、どこかで。

     

  I'll tell you all about it when I see you again・・・

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※1 「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」(小菅桂子・著駸々堂出版。1987年9月刊)
※2 ジョージ・ソルト(GEORGE SOLT)氏の著書 「ラーメンの語られざる歴史 世界的なラーメンブームは日本の政治危機から生まれた」 野下祥子・訳、国書刊行会。2015年9月刊。
※3 *「銀座秘録」 石角春之助・著、東華書荘。1937年1月刊。
※4 ネット上に出回る写真は、掲載本によっては大正2年頃、とするものもある。
※5「ベスト オブ ラーメン」 麺‘S CLUB編、文春文庫ビジュアル版。1989年10月刊。
※6「古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年‐昭和20年」 古川ロッパ・著、晶文社、2007年3月刊。
※7「大東京うまいもの食べある記 昭八年版」白木正光・編、丸の内出版社。1933年4月刊。
※8 *「淺草経済学」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。
※9 戦前の千束町二丁目 現在の浅草二丁目から五丁目にあたる。
※10『「来々軒」と結論づけ』た  特許庁・2002年12月11日付[審決1998-17819号] より。審決の根拠は「1994年3月6日付読売新聞東京朝刊」などからである。
※11 「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。
※12 *「三府及近郊名所名物案内下巻」兒島新平・発行兼編纂、日本名所案内社。1918年8月刊。
※13 *「三都食べある記」松崎天民・著。誠文堂、1932年9月刊。
※14 *「東京名物 食べある記」 時事新報家庭部・編、正和堂書房。1929年12月刊。
※15「非食記」 古川緑波・著、学風書院。「日本の百人全集」第3巻として1959年8月刊。

投稿(更新) | コメント (19) | このお店へのレビュー: 1件

コメント

こんばんわ~

長年のレポートお疲れ様です!
何年か前の横須賀のオフ会で同じテーブルのチョッピリ座われせて貰った者です!
コメント欄ではお付き合いは無かったですが、その時、ご一緒した麺友サンとのやり取りで、
たまにレビュも拝見させて貰って勉強させて貰ってました。
今回のレビュもじっくり読ませて貰って最後の件、最近のラーメンの事、何となく分かる気がします。

コレからは内勤との事、それに、こんな状況ですからねw
でも、その後の体調は良いみたいなので気が向いたら、またレビュしてみたらどうでしょう?
お付き合いある沢山の皆さんの、それを望んでいる事でしょう!!

バスの運転手 | 2020年4月8日 20:28

祝2500!といきたいところだったですが・・・何とも寂しいじゃないですか。
でも休止ですよね!!フラッとまた気が向いたらレビしてくださいまし、是非とも。
まずはお身体ご自愛ください。

それにしてもブログやってたのは・・・恥ずかしながら今知りました。
気がつかなくて申し訳ありません。そしてその熱量があまりにも凄い!!!!ただ頭を傾けるばかり
そして・・・同じムジナというか、また帰ってこられて交流が続けられるなと確信もいたしました!
町中華の魅力も、昨年、関口マグロさんや、山地力也さんと交流できてちょっと目鱗したばかり。
(こちらは冷やし中華での関わりのみでしたが:汗)
ちょっとこの分野も開拓ねばと感じ入っているところです。

RDBでスルーしがちな「町中華」と言う宝の山の発掘継続はまさに偉業!
是非とも機会があれば一献!東エリアだろうとどこでも行きますぜ!
また帰ってきてください!いつでも待ってます。

2500回2141店12年11ヶ月の活動お疲れ様でした😊
病気のこと心配してましたが、回復されたようで安心しました。
行く店行く店、ぶるさんのレビューを目にするので、
いつも驚いていました。確かに食べ過ぎましたね😆
まだ染めてない県がありますから、ゆっくり休んで、
たまにレビューあげてくださいね😙

NORTH | 2020年4月8日 21:34

どもです。
神田天府はこの界隈では安価でリーマンに大人気です❗
自分は2回しかレポ上げてませんが同僚としょっちゅう
行ってます。
引き際が格好いいですね👍
でも、ラーメンはやめられないとおもいますので、
軽い気持ちでレポ上げてください😊
皆が待ってますから👌

2500レビューおめでとうございます!

と共にお疲れ様です。まずは取り急ぎのコメ迄。

本題は次の週末辺りにじっくりと拝読します。

おゆ | 2020年4月8日 22:19

ぶるさん
長年の活動お疲れ様でした。思い起こすと一杯一杯がよみがえって来るのでしょうね。しばらく冷却期間を終えてまた戻ってきていただけることを心待ちにしております。

まなけん | 2020年4月8日 23:08

TO:ぶるーまーちのじっちゃんへ

長きに渡りレポートお疲れ様でした。
いやぁー  12年っすか、お互い歳取りました。震災前の那珂湊市場が懐かしいw(その他、船橋のでめきんなど)


レポート活動は一旦休止との事ですが、
ぶるじぃのタイミングでお待ちしております。


コロナ落ちたら(junjunプレゼンツ?)、お祝いやりましょ(^^)


じっちゃんとお会いして、リーマンショック、震災、コロナと、激動な時期を共有しておりますが、

また、一緒に麺啜りたく!

YMK | 2020年4月8日 23:10

こんばんは😊

今15分ほどかけて、最終稿を読み終わりました。
ブログの冒頭も拝見しましたが、連載編の貼り付けではないですね!
良く寝て気力を蓄えて、一気に読ませていただきます。

ぶるさんとの出会いは、港南台でしたね。
12年のうちの半分が過ぎた頃かな?
学芸大のアチラの厨房で皿洗いしてる姿は忘れないし(笑)
金町でご一緒した後日、闘病を知った時の衝撃ったら❗️
つい先日、以前に増してお元気そうなお顔を拝見出来て良かった。
何やら弔辞みたいになりましたが、なあに、新しい生活に慣れて
ふと気付けば、またラーメンをレポりたくなってますって。
かつての塩の巨匠が、台湾だ担々麺だ町中華だと変遷したように、
今度は全く違うカテゴリーでリバイバルするかもね。
そんな日を気長に待ってますよ。
つうか、同い年の自分も、それまでは頑張っておこうかなあ。
その頃には、コロナも薬で治癒する世の中であると信じて。
その日まで、じゃあ再見🤟😊

としくん | 2020年4月8日 23:14

祝2500レビュー
一旦休止と聞いて寂しい限りです。
私がぶるさんにコメをやり取りするようになったのは10年位前だったでしょうか。
それ以降ラーメン屋でも良くお会いしましたよね。
ぶるさんとのお付き合いが無ければ私もここまでRDBは続けていなかったでしょう。
そんな気持ちも込めて昨年会津遠征を企画したのですが生憎の台風で中止となり本当に残念でした。ところが、先日、ひょんなことから月美食堂にご一緒できたのも深い縁を感じます。
まずは一休みしてもらい気力、体力を蓄えて、今度こそ会津にご一緒できる日を楽しみにしています。

kamepi- | 2020年4月9日 00:32

ぶるぢっちゃんのウワサの町中華さん
初めてコメントします。
長い間本当にお疲れ様でした。
研究論文,いや,卒業論文でもありますね。
しかと読ませていただきました。
どうぞお元気で。

RAMENOID | 2020年4月9日 05:16

こんばんは!お疲れさまです!

よくぞここまで調べ上げましたね!リスペクトしかございません。<(_ _)>
自分も探求心の強いオタク気質の方ですから、「汁あり担々麺は陳建民が発明した」
という「美味しんぼ」のでっち上げを証明すべく本場四川省まで2回調べに行った事
がある人間なので、ぶるさんが足で稼いだ結論に強い説得力を感じずにいられません!w
本編のブログは後程ゆっくりと拝読させて頂きたいと思います。。。
RDBを引退ということですが、凄く残念で寂しく思います。
気が向いたらフラッと帰って来て下さいね!皆さんも同じ気持ちだと存じます。

PS. 全ては、横浜のあの場所に『來々軒』のモニュメントを置く為の象徴的な
「こじつけ」だったのかも分かりませんね。。。w
長い間、お疲れさまでございました・・・!!

4門 | 2020年4月9日 06:02

おはようございます。
お疲れさまでした。昨夜、論文をプリントして読んで寝落ちしてしまいました。
週末にゆっくり読ませていただきます。
ぶるさんとは、としさんと同じ時期にご一緒させていただいて
特に学芸大学の夜は印象深く覚えていますよ。
お身体も回復されて、福島で会いできて良かったです。
ぶるさんの独特の文章がしばらく読めなくなるのは寂しいですが
またフラッと帰ってきてくださいね。
いつか居酒屋あす花もご一緒しましょうね。
またどこかのラーメン屋でお会いしましょう。
それまでお互い元気で頑張りまましょう。

mocopapa | 2020年4月9日 07:06

シモヲタクのじいちゃん。

567落ち着いたら、金曜日かね。
Yちゃんと店決めとくわ!奢ってねぇ~。

まぁ~、暇で暇でとろけそうだわ。

たまには良いんだけどねぇ~~~~~。

隊長も呼んで、楽しくやろうぜぇ~!!

junjun | 2020年4月9日 07:44

長い間お疲れ様でした。
2500でこの力作の区切りになる辺りで、もしかしたらと思っておりました。

その通りだなと深く思いました。
來々軒は偉大だけど、初では無いんでしょうね。
最初のラーメンは特別なカテゴリーでは無く、中国から来た人が地元の料理を色々出し始めた中の一品にラーメンもあったんだなと。
神田辺りからジワリと広がって行ったが自然の様ですね。

内勤は良かったのかもしれませんね。コロナはしばらく落ち着かないでしょう。免疫力が弱ってるとより危険みたいですから。ゆっくり休まれていつかの復活お待ちしております。

あらチャン(おにぎり兄) | 2020年4月9日 08:43

こんにちは~
ただいま全文を拝読させて頂きました。
ラーメンの歴史を知ることが出来、感謝です。
レビュー休止は体調が理由では無いということでホッといたしました。
いつかまたレビューしてくださいね👌✋

銀あんどプー | 2020年4月9日 16:53

ぶるぢっちゃんのウワサの町中華さん、こんばんは。

祝・2500レビュー♪

そして、お疲れさまでした。
私も、一時期休止していた時期があったのですが、
別にラーメンって食わなくても困らない食べ物なんですよね。

また、ラーメンが食べたくなったら、ふらっと復帰していただければと。

ぬこ@横浜 | 2020年4月9日 19:49

kaitです。
祝!2,500採点。
お体良さそうで、安心しました。
休止はさみしいですが、ゆっくりしてください。
近場で飲みますか(笑)。

kait | 2020年4月10日 10:32

お疲れ様です。
祝2,500レビュー♪
これからも健康維持をしながら
ラーメンを含めた美味しい食べ物を
楽しめる旅を再開できる事を願ってます。
学べるレビュー~有難う御座いました。

あひる会長 | 2020年4月10日 15:02

こんばんは‼️

祝2500レビュー☆
でも、お休みに入られるんですね。さみしいです。

また、ラーメン食べたくなったら食べてレビューあげてください‼️

尼茶(血圧やや良化^^;) | 2020年4月11日 00:00