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コメント
旭川ラーメンの発祥は日本蕎麦屋ですか🤔
暖簾分けをした店は現存するんですね。
NORTH | 2021年8月16日 18:11こんばんはぁ~♪
ブルさんのブログで近代食文化研究会のnoteの著作は
いくつか読んでいますが、整理が出来ず頭に入っていきません。
やっぱりブルさんの説明がわかりやすくてよいですよ👱
次、ワクワクしちゃいます(*^-^*)
mocopapa | 2021年8月16日 21:23こんばんは。
丸デブの蕎麦チックなスープは淺草來々軒の初期のスープを受け継いでいるとの評価を聞いて安心しました。
旭川ラーメンのルーツは蕎麦屋だったんですか。
次回が楽しみです。
kamepi- | 2021年8月16日 22:00ぶるぢっちゃんのウワサの町中華さん、こんばんは。
旭川ラーメンというと蜂屋のようなイメージが強いんですが、
発祥が日本蕎麦系というのは面白いです。
このベースから今の旭川ラーメンの主流にどう変遷したのかも興味深いですね。
ぬこ@横浜 | 2021年8月16日 22:19こんばんは。
旭川ラーメンの発祥は芳蘭ではなく
日本蕎麦屋だというストーリーですね⁉️
その場合は函館、札幌からではなく、
関東から伝わったことになるんでしょう。
次稿お待ちしてます。
としくん | 2021年8月16日 23:03旭川系の醤油ラーメンいいですねぇ~
和出汁を感じながら、ビールと共に啜りたいです。
YMK | 2021年8月17日 08:20こんにちは。
モコさんも仰るよう分かりやすい解説。
有難うございます&お疲れさまです。
日本蕎麦文化の懐深さも改めて感じます。
そう言えば、今日のランチは蕎麦屋で天もりでした(笑)
おゆ | 2021年8月17日 17:24こんばんは
読むのもエネルギーが必要でした。
深いですね。
港港ごとに南京町、ラーメンが根付き、醤油ラーメンはやはり東京辺りから広まっている認識で良さそうですね。
蕎麦出汁かぁ…丸デブのも完全にそばやうどんでしたし。
丸デブは宝ですね。
あらチャン(おにぎり兄) | 2021年8月17日 18:23
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旭川ラーメンは どこから来たか?
・・・旭川ラーメンの発祥は昭和22年。路面店の蜂屋と、屋台の引き売りから始まった此処、青葉というのが定説である。ただし、それはあくまで戦後のことである。信頼性の高い所から引用しよう。旭川市広報誌「あさひばし」である。
『旭川で初めてメニューとしてラーメンが登場したのは、昭和初期だといわれており、そば店が、そばに加えてラーメンを提供していたという説と、中華料理店が提供していたという説があります』(2017=平成29=年11月号)
伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)氏は著作「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」(注1)で、この店で初めて食べたスープについて『こりゃそばだしだと即座に思いました』と書いている。続けて飛騨高山の 豆天狗 本店 と まさごそば のスープにも触れ『そばだしそのものでした。このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』とした。ただしその理由については『日本人にとって醤油は郷愁の味と香りだからです』としか書いていない。ここでいう“東京の支那そば”とは、文脈からして淺草來々軒のことと思われるが、この理屈だと醤油スープのラーメンはすべて淺草來々軒の影響を受けていることになる。それはかなり乱暴ではあろう。ともかく、話を進めよう。
・・・いいね、コレ。もっと醤油が立っていて、しょっぱいと思っていたが、案外そうでもない。此方の出汁素材は鰹節、煮干し、昆布、鶏ガラなどだそう。そしてこれは確かに「和出汁」的なテイストである。しかし、それは例えば。
高山の まさごそば よりはずっと「中華そば」的である。そして同じ岐阜の-----此処はボクが淺草來々軒の初期(大正半ばまで)のスープを受け継いでいると考えている店だが-----丸デブ 総本店 とは比較にならないほどずっと「中華そば」になっている。
懐かしい味でもある。けれどそのテイストは、途中まで「ああ、これはいい」と感じたのものの、最後になっていきなりその懐かしさが消えてしまうような感じなのである。大正末期に屋台で創業した銀座の 中華そば 萬福 などはクラシカルな余韻をずっと漂わせるのだが、此処はスパッと断ち切ってしまうようである。
1989(平成元)年発行の「ベスト オブ ラーメン」(注2)によれば此方の初代が『大八車を引いて屋台を始めたときから、醤油と塩ラーメン専用スープの味は変わっていない』という。ちなみに同書によれば、蜂屋のスープは『中国からの引揚者から習ったものを日本人向けにアレンジ』したもので、『豚骨と鯵干し』の“Wスープ”である。
麺が変わっている。ちょっと長めなのだろうか、一気に啜るという感じではなく、舌に纏わりつくような麺を箸で千切るような・・・、藤原製麺だという。旭川のラーメン店は藤原か、蜂屋の兄弟が創業した加藤製麺がほとんどだそうだ。創業は、加藤が蜂屋と同時の1947(昭和22)年で、藤原が翌1948(昭和23)年という、ここもまたライバル関係にあるのだろうか。ただし、藤原製麺は2008(平成20)年に永谷園の傘下に入った。
チャーシューはバラのロール。和テイストのスープには合わないだろうと思って食べると、いや驚いた。脂が抜けているのにしっとりとした食感。これは旨い。あとはメンマとかネギ。海苔には写真で見た通りの「青葉」の文字、である。
・・・記録的猛暑となった2021年8月初旬の北海道。旭川はその最たるところで、連日35度超えという、本州の内陸部並みである。この日も少し歩くだけで汗がシャツをぐしょぐしょにする。
平日の昼前。さしもの人気店も、早い時間帯・酷暑・まん防期間という状況の中では空席が目立つ。それでもボクと同じような観光客が多いようで「旭川ってこんなに暑いの?」なんて会話を、先代の奥方らしきと話している。気取らない店の感じだ。ともあれ、旭川の青葉、今回の北海道旅行の目的店の一つ、である。ただし、あくまで一つに過ぎず、本命は別の店。
ボクは淺草來々軒の物語(注3)を書く途中で、冒頭の奥村彪生氏の著作に書かれたこの店に興味を持った。そう書かれては行かないわけにはいかない。なにせ、ボクは淺草の來々軒に関しては400字詰め原稿用紙にしておおよそ250枚程度の“物語”を二回に分けて書いたのだ。だからボクは旭川まで来た。ちなみに、根拠を示しておらずあまり信頼できる記述ではないが、Wikipediaでも
『概して戦前の旭川ラーメンは、札幌ラーメンの亜流的な位置づけであったとされる。ラーメンは「東京ラーメン」のようにスッキリとしたものであった』『戦前は札幌ラーメンや東京ラーメンの亜流であったとされ・・・』などと紹介されている。
まず結論を書いてしまおう。此処青葉と、淺草來々軒とは直接、関係は、ない。しかし、東京もしくは横浜の中華(支那)そばと、何らかのかかわりを持ったことは確かであろう。さらに言えば旭川ラーメンは、少なくとも此処に関して言えば、おそらく日本蕎麦のつゆ、というか、スープの素材選びやテイストは蕎麦出汁系の影響を受けているのではないか、と考えている。それは市の広報誌に書かれたとおりであるが、それについては次回レヴュー時、あるいはブログで書くこととする。何にせよ、來々軒同様、旭川ラーメンの歴史を辿ると、これまた謎めいた物語となる。さすがにRDBですべてを書くのは無理なので、近日中にブログにまとめて公表したい。
北海道のラーメンの歴史を紐解けば、まずは函館から始まると考えてよい。江戸から明治へと大きく時代が動く中、長崎や横浜、新潟、神戸とともに箱館(函館)は「開港五港」の一つとなり、海外、とりわけ中国から様々な文化が入ってくるようになる。食文化も同様で、よく知られる話として函館の「養和軒」が1884(明治17)年4月28日付の函館新聞の広告で、「南京そむ(そば)」を出したという広告が記録にある。現在のラーメンと似て非なるものかもしれないが、明治末期には一定の数の中華料理店があったという。
札幌はというと、これもよく知られているのだろうが、1922(大正11)年に、王文彩の手により「竹家」という店で“拉麺(ラーメン)”を出したのが始まりだという。「竹家」は大久昌治・タツ夫妻によって、北海道大学正門前に「竹家食堂」として開業した店である(注4)。支那そばという名が一般的だった品を初めてラーメンと呼んだ、という話も有名だが、これには相当の異論があるが、そのことを書くととんでない長文になるので、これ以上は省略する。ただし、きちんとまとめたサイト、“近代食文化研究会(以下「研究会」という)”のnoteであるが、これを紹介したい。詳細は末尾に記載する。
さて、旭川、である。現在、北海道第二の都市として知られるが、旭川市の公式サイトによれば『明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、札幌から第7師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命を担ってきた』とある。
旭川の発展はこの記載通り、鉄道開通と、札幌にあった陸軍第七師団の旭川移転があった。札幌~旭川間の鉄道は、1898(明治31)年7月に空知太(そらちふと。廃駅。現在の砂川市)〜旭川間が開通した。既に札幌~岩見沢〜空知太の間が開通していたことで、旭川と札幌は鉄路でつながったのである。また第七師団移転は1899(明治32)年に決定され3年後の1902(明治35)年に完了したという。このことで旭川は“軍都”とよばれるようになり、明治末期には相当規模の町となっていく。
とはいえ、北海道の主要都市の大正後期の人口を見れば旭川は6万人弱で、人口規模でみれば18万超の函館の三分の一、10万超の小樽や札幌の半分程度であった。だから、ということでもないのだが、新横浜ラーメン博物館(ラー博)公式サイトでも
『札幌ラーメン文化の元祖である「竹家食堂」が、旭川に「芳蘭」という支店の中華料理店を出したことや、札幌の「丸井今井」(注5)で流行った中華そばが、旭川の同店に店を出すなど、戦前は札幌の亜流的な位置づけであった』
と記述されている。ただしこのサイト、例によってどこから引用したのか、あるいは出典は何なのかなどの記載が一切ない。ボクは淺草來々軒や高山の「まさごそば」を調べて以降、ラー博のサイト記述は誤りが多いと知り、今ではほとんど信用していない。誤りの多くはメンテナンスがされていないことに起因するが、碌に検証せず記述している箇所もある。しかし、この記述に関してはおそらくそういうことであろうと思う。
『竹家食堂の旭川支店 芳蘭(以下「旭川芳蘭」という)』について書いておく。旭川ラーメンの源流の一つになり得るからである。まず旭川芳蘭の出店時期であるが、いろいろなサイトや書籍によると昭和3年、4年、8年と諸説ある。1928(昭和3)年説を見てみるが引用は「『竹家食堂』ものがたり 北の『ラーメン』誕生秘話」(以下「竹家ものがたり」という)(注6)である。
まず、芳蘭。屋号自体は、竹家の札幌支店として1925(大正14)年3月、南三条西3丁目として開業した。二番目の支店なぜが旭川なのか。書によると、大久昌治はかつて旭川駅に勤務していたそうで、その当時の同僚であり、駅助役をしていた男を頼り、まず旭川駅での弁当立ち売り販売の許可を取ったという。先に書いたが、旭川は道北の要として発展しつつあり、商売を始めるのには好立地であった。
1928(昭和3)年初秋、昌治は旭川駅前に小さな店を借り、弁当を作りながら、ホールで中国料理も出すことにした。翌1929(昭和4)年には料亭を買い取り「北京料理 芳蘭」を開業、ラーメンを出して、これが大当たりした。冬の旭川はことのほか寒さが厳しく、温かなラーメンは有難がられたという。旭川ラーメン発祥は=昭和3年もしくは4年というのはこのことを指すのであろう。ところが、別の本、北海道新聞社発行の「さっぽろラーメンの本」(注7)は異なる記述をしていて、複数のサイトではここから引用しているのかも、と想像できる。
『(竹家食堂初代店主の)大久昌治はまた(中略)昭和八年には旭川に出て「芳蘭」を開店した。旭川の店は割烹と弁当、ラーメンと手広くやっていて評判を取ったが、札幌と旭川の往復は体にこたえるから昭和十六年、旭川の店を閉店、(札幌の)竹家の経営に専念した』。
しかし、「竹家ものがたり」では巻頭で昭和4年当時の写真などを掲載していることから、此処では「竹家ものがたり」の記述を正しいとしたい。
さて、札幌・竹家である。この店の成り立ちなどを調べていくと実に面白いことに気付くのである。旭川ラーメンの“源流”になるかも知れないので簡単に記す、と考えてある程度まとめたのだが、せっかく研究会がまとめたもの(note)があるので抜粋しておく。研究会に関しては、先にも書いたが最後に触れる。
『長男のぼるの「札幌ラーメン竹家食堂発明説」を詳細に検討すると、やはり竹家食堂の札幌ラーメンのルーツは横浜/東京のラーメン(支那そば)にあるという結論にいきつくのです。大久昌治は、省力化を名目に王文彩の手延べ麺を廃止し、当時東京で流行していた広東式の切麺に切り替えたのです。王文彩が竹家食堂をやめると、肉絲麺は抜本的に変わります。変わったというか、肉絲麺が廃止され、当時東京ではやっていた支那そばに取って代わられます。スープも、鶏ガラの塩味から、東京や横浜の支那そば=豚骨を使った醤油味に変更となります。昌治は明確な意思を持って、肉絲麺の代わりに東京/横浜の支那そばを導入したのです』(注・長男「のぼる」の字は「陞」)。
それでは旭川芳蘭が旭川初のラーメン提供店かというと、そうではないという記述がいくつか見える。一般社団法人日本ラーメン協会公認・運営による”日本ラーメンファンクラブ(以下「ファンクラブ」)”「北海道ラーメンの歴史 旭川市」(注8)によれば、
『1927(昭和2)年に営業が確認されている「支那料理 広東軒」をはじめ・・・』
という記述がある。同様の記述は他サイトにいくつかみられるが、根拠も出典も引用元も、どこのサイトでも一切触れられていないため、検証のしようがないので割愛する。
そしてもう一つ。冒頭の市の広報誌にあった『そば店が、そばに加えてラーメンを提供していたという説』である。それ裏付けるように、多くのサイトで“旭川で初めてラーメンを、ラーメンという名で出した蕎麦屋がある”という記述を見かける。それは「ファンクラブ」や「ラー博」の記述にもある。しかし、これまた残念なことに大元となる資料が見つからないのだが、とりあえず話を進める。その店、つまり日本蕎麦屋だが、すでに店は閉じられている。その蕎麦屋のルーツを探ろうと北海道の蕎麦店の歴史を調べたのだが、古くは箱館戦争あたりまで遡ることになるし、ある程度はまとめたサイトもあるのでここでは省く。結構ロマンチックな話であり、これもまたブログで書ければと思っているのだが、さてどうか。
ともかく、(戦前の)旭川のラーメン発祥は日本蕎麦屋だという記述が多くみられるのは確かだ。その店、例によってメンテナンスがされていないため、ラー博のサイトでは営業中だと書かれているが、先ほど書いたように6年ほど前に閉じられてしまっている。ただし、暖簾分けをしたらしき元の店は現存する。
旭川に来て、そこに行かない選択肢は、ない。
その店こそ、今回の旅の最終目的店、でもあるのだから。
(続く)
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※例によって、ブログの原稿を書きながらRDBにUPしているのだが、書いている途中、またまた“近代食文化研究会”(研究会)と被ってしまったのを見つけてしまった。淺草來々軒に関するボクのブログでも紹介させていただいているが、この研究会、要は淺草來々軒=日本最初のラーメン専門店でない、ということを、おそらく最初に、膨大な資料を以って世に知らしめた著作(「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」=新紀元社、2019年1月刊。第二版 Kindle版もあり)があり、それももちろんボクより先にである。最近、連絡を取り合っており、引用の許可をいただいたので以下に記しておく。
1.ラーメンという呼称を最初に使ったのが竹家 これは淺草來々軒のことを調べていくうちに「竹家ではない」ということに気が付いていたので、いずれまとめようとしていたことである。またまた先を越された・・・
研究会note【竹家食堂神話の虚構性(下)】 2021年1月
https://note.com/ksk18681912/n/nff81a0792571
2.「竹家でのラーメンの成り立ち」 これはどうぞそのままお読みいただきたい。
研究会note 【札幌ラーメン誕生の経緯を書いた七冊の本をレビュー 読むべき本は『「竹家食堂」ものがたり』】2021年1月 https://note.com/ksk18681912/n/nb2465b559a43
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(注1)「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」 安藤百福・監修、奥村彪生・著、角川ソフィア文庫。2017(平成29)年11月刊。当初は1998(平成10)年6月刊の「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」(フーディアムコミュニケーション発行)として発刊されたものを改題、文庫化したもの
(注2)「ベスト オブ ラーメン」 麺’s倶楽部・編、文芸春秋。1989年10月刊。
(注3)淺草來々軒の物語
一回目「淺草來々軒 偉大なる『町中華』」
https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/a2cff9cb8dcf5636a5caab3e78a695b3
二回目「明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~」
https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/10e274d87ab2698a1161374b2933f956
(注4)「竹家食堂」 複数の書によれば、店自体の開業は1921(大正10)年である。「竹家ものがたり」では同年12月となっている。
(注5)「丸井今井」 今井藤七が1872(明治5)年5月に創成川畔で雑貨商を開店した後、1874(明治7)年5月、南一条西一丁目に呉服店を開業したのが始まり。1897(明治30)年には旭川に出店。最盛期には道内7店舗を展開し、北海道随一の百貨店グループに成長するも2009(平成21)年に倒産。現在は三越伊勢丹ホールディングス傘下となっている(三越伊勢丹ホールディングス公式サイトなどより)。
(注6)「『竹家食堂』ものがたり 北の『ラーメン』誕生秘話」 大久昌巳・杉野邦彦 共著、TOKIMEKIパブリッシング・発行、角川書店・発売。2004(平成16)年2月刊。
(注7)「さっぽろラーメンの本」 北海道新聞社・発行、1986(昭和61)年1月刊。
(注8)日本ラーメンファンクラブ『北海道ラーメンの歴史 旭川市』 http://www.nippon-ramen-fc.org/archives/history/h0013